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「不平等条約」でスタートした
140年間のオーストリアと日本との関係

ペーター・パンツァー

 メッテルニッヒの時代、進取の気性と批判力に富んだあるオーストリア人が「オーストリアは王立印刷所が伝える漢字とお茶の国としての中国、日本の姿だけでなく、もっと別の深い関係に入れれば良いのだが…」と声高にいったものでした。それから時を経て1868年10月21日の『ノイエ・フライエ・プレッセ』新聞紙上の記事はこの言葉を思い起こさせるものでした。この日、2隻のオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦、「ドナウ号」と「フリードリッヒ大公号」がトリエステ港から日本を目指して帆を上げ、大海原へと出て行きました。それはオーストリア・ハンガリー帝国の船がこれまで舵を向けた事のない目的地へ、だったのでした。

 当時、「東洋」はオーストリア・ハンガリー帝国にとって抗う事のできない魔力を持つ言葉となっていました。英・米の艦隊によって中国、日本との交易が始まり、その東洋航路はスエズ運河の建設、開通によって頂点に達していました。オーストリア・ハンガリー帝国も、そのアドリア海沿岸領域と共にこの速くて経費の安い輸送航路の利用で、自国の生産物にとってのこの大きな市場への参入を期待したのでした。

 オーストリア・ハンガリー帝国はあのリッサでのオーストリア・イタリア海戦の時名将、テゲットホッフ提督の盟友として共に戦ったアントン・フォン・ペッツ男爵・海軍少尉を指揮官及び全権公使として、東洋における自国の利益を守るために使節を派遣したのでした。この使節団の軍艦に対するオーストリア国民の反応は予想以上のものでした。この大航海に魅了された国民はあちらこちらから乗組員にと、多数の応募者が集まり、その中には「女性の艦内用務員」として加わることを望んだ料理女もいました。彼女は乗組員たちのために料理や編み物、針仕事の家事全般をこなし、また看護の仕事も果たすからと言いました。フランス語も少し分かり、心底から旅行が好きなのでお役に立ちますからと。しかしながら、海軍省はこのような才能の持主にもかかわらず、艦にはこの申し込みを受け入れる余裕を見いだすことはできませんでした。女性は乗せないことで、2隻の軍艦は大海を越え、目的地日本に向かって進み、幸いなことに台風を免れて、翌年の1869年9月に長崎に入港しました。

 日本でこのオーストリア使節団一行はこれ以上望めないほど親切な待遇を受けました。先ずアントン・フォン・ペッツ特命全権公使の絢爛たるパレードでそれは始まり、皇居での天皇拝謁、日本の歩兵隊と公使の水兵によるブラスバンドの演奏も加わりました。そして旅の本来の目的であった修好通商航海条約の締結で一行の日本訪問は終わったのでした。

 オーストリアの外交史の中で、この条約は特記すべきものでした。日本にとってオーストリア・ハンガリー帝国は関心の高い大国ではなかったにもかかわらず、日本がそれまで列強と結んだ条約の中で最高の特権を獲得したのでした。この条約は、外国人裁判権、すべてのオーストリア・ハンガリー居住者に対する治外法権、及び極めて低い関税に関する規定を有し、オーストリア・ハンガリー帝国にとっては非常に有利な条件で、反対に日本にとって最悪な条約でした。加えてそれまで日本と条約を締結していた他の全ての列強は、最恵国約款に基づき、オーストリア・ハンガリー帝国に認められた特権を自動的に手に入れることができ、オーストリア・ハンガリー帝国の後にはもはや他の大国が日本とこのような条約の獲得には努めなかったので、このオーストリア・ハンガリー帝国との条約こそ、日本が最初に改正を熱望したものでした。この「不平等条約」と呼ばれた条約の改正は19世紀の終わり頃まで歴代日本政府の主要課題でした。ともかく条約改正は日本の外交史における支配的なファクターだったのでした。

  1871年12月、横浜を出帆した、特命全権大使岩倉具視の米欧回覧の本来の目的はやはりこの不平等条約の改正でした。使節団が巡り巡ってオーストリア・ハンガリー帝国に到着した時は、ウィーンではちょうど世界万国博覧会が開催されていて、岩倉使節団は大変な歓迎を受けました。遠いヨーロッパでの万博で日本の評判は非常に良く、立派に成功している様子を目の当たりにして、政治的には成功は得られませんでしたが、日本の発展に大いに自信を持ったものでした。

 この日本の不平等条約改正への努力には緊迫した状況に満ちていました。日本の世論は政治家達に圧力をかけ、激昂した人々の中には自分達の大臣の暗殺に走る者も出ました。大隈重信の足はその犠牲になったのでした。日本の内閣は必然的に条約の改正の達成を強制されました。他方、日本国民及びその諸制度があまりにもまだ二流であると確信していた列強は、日本への懐疑の念と留保の態度を崩しませんでした。立法、とどのつまり総てのことが非難され、依然としてヨーロッパの理想像から日本は遠いものであると指摘されていました。

 オーストリア・ハンガリー帝国の公使はこの問題、状況が身をもってはっきりと実感させられました。東京で開催された川開きの日、たまたまその時、日本を訪問していたバルディ伯爵夫妻を乗せて公使の船が或る橋の下にさしかかったところ、橋の上から石が投げ落とされたのです。幸いなことに侍従のひとりが軽症を負っただけでしたが、船上の幾つかの物が粉々に壊されたのです。公使は正式に抗議書に、重さ10キロの同じ種類の石を見本として添えて外務大臣に送りました。その後、間もなくして警察は16歳の若者の投石現場を押さえたのでしたが、彼が犯人であったのかどうかは調べることは出来ませんでした。

 やっと列強は日本に対して条約改正止むを得ずと承知し、オーストリア・ハンガリー帝国もそれに倣い条約の改正に踏み切りました。公使、ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵にとって、東京でのポストは日本への愛着心を見覚めさせるものとなりましたが、伯爵はオーストリア・ハンガリー帝国外務省に宛てた報告書の中で、このことについて次のように述べています。「この条約改正によって不安定な状態が終わりに近付きました。即ち、各国民を代表していたと同じ数の国法の効力があった……。日本の役人達の誇りはどの国に於けるよりも模範となるものです。また、役人及び学生達の勤勉さとその努力力行、何処に於けるよりも日本は無知による被害が少ないことが保証しています。西洋文化の精神、それと同等の高い精神性を持つ国に対して、領事裁判の存続に固執するのは、その国の進歩を認めないということで、この国に無用な屈辱を与えたことではなかったでしょうか」。

 付言すれば、クーデンホーフと共にオーストリア・ハンガリー帝国は日本とその言葉の持つ本当の意味での、友好関係に入りました。クーデンホーフ伯爵は日本女性と結婚したのでした。これはそのように高い階級のヨーロッパの外交官が日本女性と結婚した初めてのケースでした。息子のひとりリヒャルト自ら書いているようにアジア女性とヨーロッパ男性のあいだの子供として彼は言わば両大陸の重みを負う事で、国家という思想から離れ、その考えは超大国という概念に既に到達していたのです。それば汎ヨーロッパ運動となり、後にはヨーロッパ議会連合の創始者、そしてその会長になったのでした。

 オーストリア・ハンガリー帝国は日本との友好を大事にすべきこととして本腰を入れ始めました。先ず、公使館の新築から始めました。それはクーデンホーフ伯爵公使の時代でした。かの鹿鳴館を建てたイギリスの建築家ジョサイア・コンドルによって、紀尾井坂(麹町紀尾井町7番地)に立派な建物が落成しました。そこは第一次世界大戦が始まるまでオーストリアの公使館(後に大使館に昇格)として使われていました。残念な事に関東大震災で、焼失してしまいましたが、現在の上智大学の中に位置していました。

 さて、父親のクーデンホーフは音楽に理解をもつ、大変な音楽愛好家でした。日本で最初に開催されたオペラ、その上演に際して、彼はファウスト役を歌っています-------- その時のプログラムにはグノーの「マルガレーテ」と記載されて現在は残っています-------。他に音楽に関してはこんな話も残っています。数奇な運命によって1867年ひとりのオーストリア男爵が日本に流れて来て、写真家として20年間、横浜で活躍していました。この活動的な男爵は、日本の音楽の中の幾つかに、ウィンナワルツと類似したものを見つけたと言い出したのです。その訳はウィンナワルツを聞くと自然にダンスを始めたくなり、また或る日本の音楽は聞くと耳を押さえて逃げ出したくなると言うのです。つまりどちらもリズミカルで足が独りでに動き出す、というところが似ているということでした。それを耳にした日本側はとにかく東京での条約改正の交渉に際して粘り強く外国の外交官を交渉の席につなぎ留めて、逃げ出さないように、良い気分で交渉を続けるためには、オーストリアでは音楽が人の心にこのように作用するのだということを悟ったのでした。

 ところで、ウィーン駐在の公使戸田氏共伯爵はワルツ王、あのヨハン・シュトラウスを音楽学校の先生として日本に招聘する計画を立てていたといわれています。この計画は潰れてしまいましたが、オーストリアの音楽をどうしても諦め切れませんでした。それで国立音楽学校の芸術指導者として、ヘルメスベルガー、ブルックナーの弟子であったルドルフ・ディットリッヒが代わりに招聘されたのです。6年間の滞在中に彼は多くの才能ある生徒たちを育て、日本における西洋音楽育成の基礎を築きました。このように音楽こそは、日本におけるオーストリアの最も有能な大使であったといえます。しかしオーストリア・日本間の通商に関してはそれほど音楽的だったとはいえませんが。とはいえ調和に欠けることも無く盛んになっていきました。オーストリア産業界の製品を紹介するために、日本の商業界と初めてのコンタクトが取られたのは、1869年10月に横浜で開催された商品見本市においてでした。ハース&ゼーネの絨毯、トーネットの家具、ライトホーファーのゴム製品、ヴェルトハイムの金庫、シュエハッターのビール、ローブマイヤーのガラス製品、勿論ワイン等も当時そして現在もなお輝かしい名声を博していますがこれらが、展示されました。

 それとは逆に日本からオーストリアへの最初の製品が到着するのに長く時間は掛かりませんでした。そして今日も尚、日本の産業界で名を成しているもの総てがオーストリアの市場をも飾っています。さて、本題の歴史に戻りますと、1873年のウィーン万博博覧会、即ち、経済や科学、文化における世界中の国々の見本市に初めて参加するとした日本政府の決断が、条約の成立をみて間も無いオーストリアとの関係において最初の実りのある成果を生み出しました。最も進歩的な日本の政治家とのあいだでは、万国際博覧会に結び付けて、天皇のウィーン訪問を進言する計画さえありました。しかし日本の天皇家の歴史におけるこの前代見聞のことが及ぼす様々な影響を考えて、結局これは断念されました。

 オーストリア・ハンガリー帝国駐在初代日本公使であった佐野常民の指揮の下におかれた、ウィーン万国博覧会準備委員会の人数は80名近くに達しました。委員会は日本館の建造に心を配りつつ、学ぶに値することがあれば学び、ヨーロッパの発展を習熟するために、常に目を大きく見開き、耳を傾けていました。ウィーン万博では全く不満を言わせぬ程の、見学者数、称賛の辞、そして購買意欲に事欠きませんでした。日本製品、特に工芸品は大変な売れ行きで、賞やメダルを獲得しました。日本側の出展者たちは、貴重な刺激を経験を、また自国の産業と経済についての認識を新たにしてオーストリアから激励を受けて故国に錦を飾って戻って来たのでした。日本の報道者たちは全員、日本にとってこの世界博覧会が持つ意義についていろいろ指摘をしていますが、このウィーンにおいて、日本は行きを呑むような進歩のきっかけを与えられたのでした。

 日本にとってオーストリアの工業製品以上に熱狂的なファンが出来た特産物がありました。それは、スキーです。昭和の初めに、チロルの名スキーヤー、ハンネス・シュナイダーが新しいスキーの技術の指導に日本に来ています。また彼のスキー映画も上映されました。これによってスキーは広く世に普及していきました。そしてあのトニー・ザイラーの出現によってこのスポーツへの熱中ぶりは今日見覚ましいものとなっています。日本の旅行業界、オーストリアのウィンタースポーツ関連産業は、今日、日本の1.000万人に近いスキー愛好者を満足させています。スキーはオーストリアと日本をつなぐリングになりました。日本のスキーがあるオーストリア人、オーストリア・ハンガリー帝国軍隊のレリヒ少佐によってその任地、新潟で紹介されたことは自国のオーストリアではそれ程知られていなくとも日本ではスキーの歴史には欠かせないことで、このオーストリア人に敬意を表して建てられた幾つかの記念碑が、このことを如実に物語っています。

 過去の歴史を回顧すると、日本とオーストリア・ハンガリー帝国との関係は、オーストリアの外交政策が最も多彩な時代に始まっています。第一次世界大戦では、当時たまたまアジアの海上を航行していたオーストリアの軍艦が、青島防衛のドイツ側について日本と戦わなければならなくなり、また第二次世界大戦ではオーストリアによって併合されたいきさつから、その時代の外交関係には大きな空白がありましたが、今日再び外交や経済、及び文化の分野に於いて、ヨーロッパ大陸の中心に位置する国オーストリアと極東の国日本とのあいだにはますます親密な関係、交流が膨らみ、それはいつまでもドナウの豊かな流れのように美しく青く絶えることはないでしょう。

 オーストリアのように小さな国にとって、両国関係もそれなりに華やかに彩られていた輝かしい過去を回想することは大きな楽しみであります。しかし、現在においても特筆すべきことは充分にあります。姉妹都市関係、交換留学生、両国語の弁論大会、奨学金制度等々です。さらに、諸展覧会で示される両国間の絶え間ない文化交流は特に目立つことです。ここ数年、「栄光のハプスブルク家展」(1992年)や「マリヤ・テレジアの古伊万里コレクション展」(1997~98年)などで、オーストリア関係のテーマが日本で大々的に紹介され、話題をまくと共に大きな関心を呼び起こしました。反対に、オーストリア工芸館の「ウィーンにおけるジャポニズム 1870年~1930年展」(1990年)や、本年日墺交流130年記念として催されたウィーン市立歴史博物館の「侍と武士道展」(1999年)などを通して、オーストリア庶民に日本文化を紹介する伝統は今も大切に続けられています。

 日本とオーストリアの交流関係は非常に広範囲にわたるものですが、それはオーストリア・ハンガリー帝国が自信をもって日本の港に軍艦を登場させた時から始まったのでした。それから日本の新秩序設定にオーストリアが寄与することが出来た期間を経て、それぞれの国は新しい発見をもって、ほほえましいロマンや楽しい関係を相互にもたらしあいました。日本の驚くべき勢いでの近代技術の吸収発展の過程、そして相互尊重が強調される状態に達するまでの、歴史上・文化上での成果を互いに讃えるだけでなく、経済的及び時代に即しての発展に対する理解へと進んでいきました。両国の豊かさや多様さ、それと同じようにその交流関係もまた、現在、豊かで多様なのであります。

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Zwischen Nagasaki und Triest
140 Jahre freundschaftliche Beziehungen zwischen Japan und Österreich

Peter Pantzer

„Gebe Gott, daß Österreich zu Japan und China endlich in andere Beziehungen trete als durch den Tee und die chinesischen Typen der k.u.k. Hof- und Staatsdruckerei“. So hatte ein unternehmender und kritischer Österreicher aus dem Vormärz ausgerufen. Und an diese Worte erinnert auch ein Artikel am 21. Oktober 1868 in der „Neuen Freien Presse“, als zwei österreichische Schiffe, die „Donau“ und der „Erzherzog Friedrich“, ihre Gaffel-, dann Klüversegel setzten und vom Hafen von Triest aus in See stachen. Mit dem Ziel Japan. Einem Ziel, das bis dahin kein österreichisches Schiff angesteuert hatte.

Ostasien war zu einem Zauberwort geworden, dem sich auch Österreich nicht verschließen konnte. Es begann mit der Öffnung Chinas und Japans durch englische und amerikanische Flotten und erreichte seinen Höhepunkt mit dem Bau des Suezkanals. Auch Österreich, mit seinen an der Adria gelegenen Gebieten, hoffte, jetzt über einen schnellen und billigen Transportweg bedeutende Absatzmärkte für die heimischen Produkte zu erschließen.

Die Expedition, die Österreich unter dem Kommando von Konteradmiral Anton Freiherr von Petz, Tegetthoffs Mitstreiter bei Lissa, losschickte, um in Ostasien seine Interessen zu wahren, brauchte sich dann auch nicht zu beklagen, in der Heimat zu wenig Widerhall gefunden zu haben. Unter den zahlreichen Bewerbern aus Zis- wie Transleithanien, die das Vorhaben der Reise in Bann zog, war auch eine Köchin, die in das „weibliche Schiffsdienst-Personale“ aufgenommen zu werden wünschte. Sie würde für das Schiffspersonal kochen, stricken, nähen, die häuslichen Arbeiten sorgfältig verrichten und hilfreiche Krankenpflege leisten. „Sie kann etwas Französisch und hat in ihrem Innersten große Neigung zu Reisen“. Das Ministerium fand sich jedoch trotz aller dieser Vorkenntnisse nicht in der Lage, diesem Gesuch Folge zu leisten, und so glitten, ohne diesen weiblichen Geist, die beiden Schiffe über die Wellen, ihrem Ziel Japan entgegen, wo sie im September des folgenden Jahres, 1869, glücklich einem Taifun entkommen, einliefen.

Eine zuvorkommendere Behandlung in Japan brauchten die Österreicher nicht zu wünschen. Das begann mit dem farbenprächtigen Aufmarsch des Gesandten Petz, von japanischer Infanterie und seiner Matrosenblechmusik begleitet; und endete bei dem eigentlichen Zweck der Reise, dem Abschluss eines Handels-, Schifffahrts- und Freundschaftsvertrages.

In der Geschichte der österreichischen Außenpolitik steht dieser Vertrag wie ein Kuriosum da. Obwohl Österreich-Ungarn in Japan nicht die meistinteressierte Macht war, erlangte es die bis dahin meisten Vorrechte in Japan. Mit seinen Vorschriften über Fremdengerichtsbarkeit, Exterritorialität aller österreichischen und ungarischen Residenten und äußerst niedrigen Zöllen war es für Österreich-Ungarn das beste, für Japan das schlechteste Vertragswerk. Und da alle anderen Mächte, mit denen Japan einen Vertrag abgeschlossen hatte, auf Grund der Meistbegünstigungsklausel, automatisch die Österreich gewährten Vorteile einheimsen konnten, sich nach Österreich-Ungarn auch keine andere Macht mehr in Japan um einen Vertrag bewarb, war es ergo dieses österreichische Schriftstück, das Japan nichts sehnlicher als vom ersten Augenblick an zu revidieren wünschte. Die Revision dieses Vertrages (in Japan nannte man jene, mit dem Ausland abgeschlossenen Verträge naturgemäß „Ungleiche Verträge“) war dann bis in die letzten Jahre des 19. Jahrhunderts das Hauptziel aller japanischen Regierungen; überhaupt die Vertragsrevision der beherrschende Faktor in der japanischen Außenpolitik.

An Spannung waren diese japanischen Revisionsbestrebungen nicht arm: die japanische Öffentlichkeit drängte ihre Politiker, Hitzköpfe griffen zu Attentaten auf ihre eigenen Minister. Die japanischen Kabinette standen unter dem Zwang, die Vertragsrevision heimzubringen. Und auf der anderen Seite standen voll Skepsis und Vorbehalte die Mächte, die gar zu sehr von der Zweitklassigkeit des japanischen Volkes und seiner Einrichtungen überzeugt waren, Gesetzgebung, schlechthin alles wurde bemängelt und als noch nicht genug den westlichen Idealen angepasst bezeichnet.

Ein österreichischer Gesandter in Japan hat dieses Problem recht deutlich am eigenen Leib zu spüren bekommen. Als bei einem Flusseröffnungsfest in einem Stadtteil von Tokyo das Boot des Gesandten Biegeleben, auf dem sich damals die gerade zu Besuch in Japan weilenden Graf und Gräfin Bardi befanden, unter einer Brücke durchfuhr, wurde es von oben mit Steinen beworfen – solchen von Ziegelgröße. Glücklicherweise wurde nur ein Diener leicht verletzt, dafür aber an Bord des Bootes etliche Gegenstände zertrümmert. Ein zehn Kilogramm schweres Exemplar von dieser Gattung Stein sandte der Gesandte, versehen mit einem öffentlichen Protest, dem Außenminister. Ob ein 16jähriger Bursche, den die Polizei bald danach beim Steinwerfen erwischte, der Übeltäter war, konnte nicht ausgeforscht werden.

Endlich bequemten sich die Mächte, und in diesem Konzert auch Österreich-Ungarn, Japan eine Revision des Vertrages zuzugestehen. Geschäftsträger Heinrich Graf Coudenhove-Kalergi, dem sein Posten in Tokyo zu Japan große Liebe erwachen ließ, bemerkte dazu in einem Bericht an den Ballhausplatz, „dass damit ein unhaltbarer zustand seinem Ende entgegengegangen war, nämlich die Geltung ebensovieler Landesrechte als Nationen vertreten waren … Die japanische Beamtenehre könnte jedem Lande als Muster dienen, während der Fleiß, die Strebsamkeit der Beamten und Studierenden genügend Garantien dafür bieten, dass die Ignoranz hier nicht mehr Schaden stiften wird als anderswo. Ein Insistieren auf den Fortbestand der Konsularjurisdiktion in einem Lande, das derartige Fortschritte im Geiste der abendländischen Zivilisation aufzuweisen hat, wäre eine unnütze Demütigung dieses Landes durch Nichtanerkennung seiner Fortschritte gewesen“.

Mit Coudenhove übrigens war Österreich mit Japan in eine im wahrsten Sinne des Wortes herzliche Beziehung getreten. Graf Coudenhove heiratete eine Japanerin; die erste Ehe eines europäischen Diplomaten in diesem hohen Range, der sich mit einer Japanerin vermählt hatte. Sohn Richard, der – wie er von sich selbst schrieb – als Sohn einer Asiatin und eines Europäers gewissermaßen von Kontinenten belastet war und schließlich nicht mehr in nationalen, sondern übernationalen Begriffen dachte, wurde der Begründer und Präsident der Pan-Europa-Bewegung und später der Europäischen Parlamentarischen Union.

Unmusikalisch war Vater Coudenhove nicht, denn bei der ersten Opernaufführung, die je in Japan stattfand – es stand Gounods „Margarethe“ auf dem Programm -, sang er die Partie des Faust. Überhaupt war das mit der Musik so eine Sache. Ein forscher österreichischer Baron, den das Schicksal 1867 nach Japan verschlagen hatte, wo er dann zwanzig Jahre als Fotograf und Unternehmer lebte, fand in der japanischen Musik einiges Analoge mit dem Wiener Walzer; beides gehe nämlich in die Beine, das eine zum Tanzen, das andere zum Davonlaufen. Natürlich war dies nur als ein Bonmot gemeint. Um jedenfalls die ausländischen Diplomaten bei den ohnedies so zähen Vertragsrevisionsverhandlungen in Tokyo am Verhandlungstisch und bei Stimmung zu halten, entdeckte Japan sehr früh seine Liebe zur österreichischen Musik.

Der japanische Gesandte in Wien, Graf Toda, bemühte sich vergeblich, Johann Strauß, den Walzerkönig, als Lehrer nach Japan zu gewinnen. Die Pläne zerschlugen sich. Aber man blieb bei Österreich. Die japanische Regierung holte sich Rudolf Dittrich, Schüler von Hellmesberger und von Bruckner, als künstlerischen Leiter der staatlichen Musikhochschule nach Tokyo. In sechs Jahren Tätigkeit konnte er eine Reihe begabter Schüler ausbilden und in Japan die Grundlage für die Pflege westlicher Musik schaffen.

Musik, sie wurde zu Österreichs tüchtigstem Botschafter in Japan. Weniger musikalisch, doch deshalb nicht weniger harmonisch, gedieh der Handel zwischen Österreich und Japan. Die ersten Kontakte mit der einheimischen Kaufmannschaft, sie mit den Erzeugnissen der österreichischen Industrie bekanntzumachen, wurden auf einer im Oktober 1869 in Yokohama abgehaltenen Warenmusterausstellung aufgenommen. Gezeigt wurde damals, was gut und (auch heute noch) von illustrem Namen war, wie Teppiche von Haas & Söhne, Thonet-Möbel, Gummiwaren von Reithofer, Wertheim-Kassen; Schwechater Bier, Glaswaren von Lobmeyer, und natürlich Weine.

Es dauert nicht lange, bis dann die ersten Industrieprodukte umgekehrt, von Japan nach Österreich gelangten. Heute schmückt alles, was in Japan in der Industrie einen Namen hat, auch den österreichischen Markt. Um aber bei der Geschichte zu bleiben. Das erste fruchtbare Ereignis der jungen Beziehungen Japans mit Österreich bildete der Entschluss der japanischen Regierung, an der Wiener Weltausstellung 1873 teilzunehmen; zum erstenmal mitzumachen am Messen der Länder aller Welt in Wirtschaft, Wissenschaft und Kultur. Es bestand sogar die Absicht unter den fortschrittlichsten japanischen Politikern, den Tenno zu einer Reise nach Wien zu bewegen; wegen der möglichen Folgen eines so unerhörten Ereignisses in der Geschichte des japanischen Kaiserhauses wurde letztlich davon Abstand genommen.

Die Zahl der nach Wien gesandten japanischen Ausstellungskommission, die unter der Leitung des ersten japanischen Gesandten in Österreich, Sano Tsunetami, stand, erreichte beinahe 80 Mitglieder. Die Kommission besorgte auch das Aufstellen der eigenen Gebäude und hatte vor allem die Aufgabe, Augen und Ohren offenzuhalten; zu lernen, wo es zu lernen galt, und sich mit den europäischen Errungenschaften vertraut zu machen.

Über Mangel an Besuchern, Bewunderung und Kauflust konnte Japan sich in Wien nicht beklagen. Japan Erzeugnisse, vor allem aus dem Kunstgewerbe, fanden reichen Absatz und konnten Preise und Medaillen gewinnen. Japans Aussteller kehrten aus Österreich mit gestärktem Rücken in ihre Heimat zurück, mit wertvollen Impulsen und Erfahrungen und neuen Ideen für die eigene Industrie und Wirtschaft. Alle japanischen Autoren weisen auf die Bedeutung dieser Weltausstellung für Japan hin, und so wurden hier in Wien Markstein und Anfang gesetzt zu dem atemberaubenden Fortschritt Japans.

Mehr als österreichische Industrieprodukte fand eine andere österreichische Spezialität in Japan eine begeisterte Anhängerschaft: der Schilauf. Durch Hannes Schneider in der Zwischenkriegszeit populär geworden, wurde durch Toni Sailer die Hingabe an diesen Sport noch größer; so blicken der japanische Fremdenverkehr und die österreichische Wintersportartikelindustrie mit Befriedigung auf die heute rund zehn Millionen Schiliebhaber in Japan. Der Wintersport wurde zu einem lebendigen Bindeglied zwischen Österreich und Japan. Daß der Schilauf in Japan von einem Österreicher, einem Major der k.u.k. Armee eingeführt wurde, weiß – so unbekannt es in Österreich sein mag – in Japan jedes Kind. Diesem Österreicher zu Ehren aufgestellte Denkmäler in Japan geben davon beredte Kunde.

Sport ist bekanntlich nicht nur die, wie es heißt, wichtigste Nebensache dieser Welt, sondern auch ein eminenter Wirtschaftsfaktor. Damit sei hier noch einmal an ein historisches Ereignis angeknüpft. Zum Ausbau der Handelsbeziehungen bis in den fernen Osten hatte die vielseitige österreichische Kaufmannschaft auf der Wiener Weltausstellung ein „Comité für den Orient und Ostasien“ gegründet. Dieses Komitee residierte dort in einem eigenen, „Cercle Oriental“ genannten Gebäude, um stilgerecht persönliche Kontakte mit Vertretern der östlich von Suez gelegenen Ländern anzuknüpfen. Übers Jahr konstituierte sich dieses Orient- und Ostasienkomitee offiziell als „Orientalische Gesellschaft für Handel und Volkswirtschaft“ und gründete ein „Orientalisches Museum“, um die wirtschaftlichen Beziehungen mit Asien weiter zu bewegen. Das Museum sollte den heimischen Export durch Erteilung kommerzieller Auskünfte fördern und kommerzielle sowie orientalisch-kunstgewerbliche Sammlungen anlegen. Der österreichischen Kaufmannschaft war damit Möglichkeit geboten, sich jederzeit über den Stand der Industrie vom Nahen bis zum Fernen Osten das rechte Bild zu machen.

Während der Weltausstellung lag im „Cercle Oriental“ ein prächtiges Gedenkbuch auf, in das sich Honoratioren aus dem In- und Ausland eintrugen, allen voran der Kaiser. Am 30. Juni 1873 schrieb der japanische Gesandte in dem Album seinen Namen nieder. Heute liegt dieses bedeutungsvolle historische Zeugnis, gleichsam ein erstes Sprungbrett des österreichischen Handels in den Fernen Osten, in der Wirtschaftkammer Österreich in Wien, Abteilung Handelspolitik und Außenhandel. Hier wird Geschichte zur Gegenwart. Symbolhaft werden in diesem Gästebuch die Ansätze des 19. Jahrhunderts lebendig, mutig und couragiert begonnen; fortgeführt mit wechselndem Geschick, wie es der Gang der Monarchie und dann der Republik mit sich brachte; heute in den Händen der gesetzlichen Vertretung des heimischen Handels, den zeitgemäßen und modernen Erben, die auf dem Gebiet des Handelsverkehrs zwischen Tokyo und Wien, zwischen Japan und Österreich, ihr Teil dazu beitragen zu dem für eine friedliche Welt so wichtigen prosperierenden Wirtschaftsleben.

In all dem wird uns bewusst, wie bunt und vielfältig, wie intensiv und fruchtbar auf allen Gebieten, wirtschaftlichen, diplomatischen und kulturellen gleichermaßen, die Beziehungen zwischen dem Land im Herzen Europas und jenem im Fernen Osten waren und dies auch heute sind.

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